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境内案内(諸堂)

鐘楼
鐘楼 大晦日に信者による除夜の鐘会が催される。
詳細は、電話にて受け付けます。
052-262-0735
身代わり不動明王
身代わり不動明王 御立ち姿の石像。一切の悪魔を降伏させる真言明王の御威勢を示す妙相を表情に持っている。
元亀元年(1570年)織田信長公が越前の朝倉城を攻めた帰り道、琵琶湖の北方で、杉谷善住坊にねらいうちされたが、二発の命中弾は、信長公の懐ろの干餅に当り、かすり傷だけで、落命をまぬがれた。これも不動明王の加護によるものといわれている。この話を聞いた加藤清正が「身代り不動」と命名した。
現在毎月二十八日にこの由緒を伝えるため、当寺境内で餅をつき、参詣の方々に厄除け、身体健全、無病息災祈願のうえお配りしている。
御深井(おふけ)観音
御深井(おふけ)観音 徳川春姫様(尾張徳川家初代。義直公の御夫人)守護仏として名古屋城の北御深井の里にまつられていたのでこの名がある。のち春姫様の菩提所、萬松寺に移された。安産、良縁成就、恋愛成就に霊験いちじるしいものがある。
白雪稲荷
白雪稲荷 白雪咤枳尼真天(はくせつだきにしんてん)がおまつりしてある。
創建された萬松寺の地に千年も前から住んでいた白狐が白雪様の狐族となってまつられたのが起源といわれる。伝説によれば、萬松寺が一時衰微したとき、このお稲荷さまが御小女郎に化身し、お金を工面し寺の窮状を救ったといわれる。
このことから、商売繁盛、家内安全に霊験あらたかで商業を営む人のお参りが多くみられ、別名御小女郎稲荷、とも呼ばれる。
仏足石
仏足石 お釈迦様が亡くなられたあとインド人が尊宗の念から釈尊の足跡を石に刻んだものを、仏足石という。
萬松寺の仏足石は天平勝宝四年九月越田安万が描いたものを、東海大江玄が仏足石に製作したといわれる。
名古屋城建設のとき集まった石材の中から加藤清正公が見つけて礼拝したといわれる。
萬松寺塔頭三ヶ院
南は福寿院(現大須三丁目)、北は万年寺(現大須三丁目)、 永昌院(現松原二丁目)である。
昔は盛巌院(高原院殿の乳母妙久尼の建立)があったが、寛文一一年火事で焼失。
後寂元師のとき妙久尼の牌を福寿院に移した。現在三ヶ院は末寺となっている。
故亜相源敬公大夫人霊廟
尾張藩組祖義直公の夫人で、浅野幸長の娘、高原院殿を祭る。一名おたまやという。
夫人春姫は慶長八年(一六○三)、紀伊太守浅野幸長の娘として和歌山に生まれる。幼いころから古典の和歌、書に深く通じ才媛ぶりは有名であった。
一三歳のとき尾陽公源敬公(尾張藩祖義直)に嫁いだ。夫人は戦国無常の世相の影響か、ある日涅槃像を拝もうと、藩内のお寺を調べさせたがどこにもなかった。
当時萬松寺は八世明谷師であったが、寺に伝わる涅槃像を夫人に贈った。このことから夫人は萬松寺と檀縁を結ぶことになる。

「涅槃像を拝しては無常の相を観じ、舎利塔を礼し有漏の塵を払う、且つ万松の檀那の縁しを結びば書を明谷に寄せ曹洞の禅に参ず。又諸等の住持の行を聞いては使いを主僧に遣わし、各宗の旨を問う」《亀山誌より》
夫人の信心深さを表す一文であろう。

寛永一四年四月二二日、武江(現在の東京)で病死す。萬松寺に遺骸を迎え僧法に準じて火葬が営まれた。夫人を高原院と称し、大岳と号し、宗椿と名づけられた。
位を大禅定尼と奉られた。寺の西北に霊廟を建て遺骨を収めた。
現在は名古屋東照宮(丸の内)に移された。