信秀公墓碑

のぶひでこうぼひ

織田信秀公

永正8年(1511年)、尾張国の勝幡城主織田信定の嫡男として生を受けました。幼い頃から英知に優れていた信秀公は、弱冠17歳で家督を継ぎ、織田一族の壮絶な内紛を制して尾張一円を領した後、革新的な政策で尾張地区の商業を大きく発展させました。また周辺諸国からは「尾張の虎」と呼ばれた猛将で、東は駿河の今川氏親、西は美濃の斎藤道三との合戦を重ねながら領土を拡大させるなど、息子信長が後に天下布武を推し進める礎を築き上げました。天文21年(1552年)3月3日、病によって死去した信秀公は万松寺で盛大な葬儀が行われた後、同寺境内に埋葬されました。信秀公の墓碑は万松寺境内に建立され、地元の方々や歴史ファンの皆様に長年親しまれていましたが、老朽化した諸堂を立て直すため、2015年に惜しまれつつ撤去されました。信秀公の祥月命日でもある3月3日に新しい場所にお祀りされました。

毎年、万松寺では信秀公の命日にあたる3月3日に追善法要(信秀忌)を執り行っております。一般の方も法要や式典へのご参列、幸若舞奉納をご鑑賞いただけます。

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織田信秀公墓碑

御深井観音

おふけかんのん

御深井観音

万松寺の北西にまつられている御深井観音は、尾張徳川家初代藩主・徳川義直(とくがわよしなお)公の正室「春姫(はるひめ)」様の守護仏です。
春姫様は、慶長8年(1603)に和歌山城で紀州藩初代藩主・浅野幸長(あさのゆきなが)の娘として誕生しました。幼い頃から古典の和歌や書に深く通じ、才媛ぶりは有名だったと言われています。
慶長14年(1609)に義直公と縁談し、元和元年(1615)に義直公の正室として尾張徳川家にお輿入れされました。春姫様13歳の時でした。お輿入れの花嫁行列は、女騎馬武者43人、長持(ながもち)300棹、御駕籠(おかご)50挺。行列の長さは10数町にも及んだと伝えられ、混乱の戦国末期政治の安定と太平の兆しとして、尾張の町衆に歓呼の声で迎えられました。
このお輿入れは名古屋の豪華な結婚式のルーツとなったとも言われています。
しかしながら尾張徳川家に嫁いだ後の春姫様は、藩主の正室として最も重要な事である世継ぎが授からず、心穏やかでない日々が続きました。その様な時は名古屋城の北にある「御深井(おふけ)の里」と呼ばれる庭園にまつられていた観音様を深く信仰する事によって、不安や苦しみから解き放されたと言われています。
寛永14年(1637)に春姫様が病死された後、御深井の観音様は春姫様の守護仏として、菩提所である万松寺に移されました。以後、御深井観音と呼ばれ、恋愛成就・良縁成就・安産祈願を願う女性を見守り、良いご縁へと導いて下さっています。

【御利益】

安産成就 良縁成就 恋愛成就 厄難消除

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御深井観音

重軽地蔵

おもかるじぞう

重軽地蔵

万松寺の北西には、重軽地蔵という願掛けの仏様がおまつりされています。この重軽地蔵はお参りの作法が一風変わっており、願掛けの前にお地蔵様を持ち上げ、次に願いを込めて合掌し、その後もう一度お地蔵様を持ち上げます。この時、願掛け前よりも軽く感じれば願いが叶うとされ、長い間信仰されています。
お地蔵様の正式の名前は、「地蔵菩薩」。その名の由来は、サンスクリット(梵)語の「クシティ・ガルバ」の漢訳で、「大地の母胎」を意味します。大地が全ての命を育む力を蔵する様に、大きな慈悲の心で衆生をお救いになる事から、この名が付いたと言われています。
元々は、お釈迦様が亡くなってから、跡継ぎの弥勒菩薩様が現れるまでの56億7千万年という非常に長い年月の間、衆生を救ってくださる仏様として現れたとも言われています。
地蔵十王経によれば、お地蔵様はあの有名な閻魔大王の本地仏と言われ、今昔物語では、お地蔵様を供養礼拝したことで娑婆(現世)に生き返ることができたというお話がいくつか伝えられています。
お姿は、剃髪し袈裟を身に着けた僧侶の様です。左手には桃の様な形をした願い事が叶うといわれる如意宝珠と呼ばれる珠を持ち、右手には錫杖(しゃくじょう)※1を持つか、与願印(よがんいん)※2をとる場合もあります。
また、お地蔵様といえば、赤い頭巾と前掛けをしている姿もよく見られます。これはお地蔵様が子供と縁の深い仏様とされており、子供(赤子)を連想させる頭巾と前掛けを施す様になったと言われています。

  1. 僧・修験者の持つ杖。頭部についている環に、さらにいくつかの小環をつけたもの。18の法具の1つ。これを使い、迷える六道衆生の煩悩を打ち砕き、さらに浄土へと救い導いてくれると言われている。
  2. 手のひらを正面に向けて下へ垂らす形。

毎月24日は地蔵菩薩の縁日です。お地蔵様と縁がより深い日ですので、両手を合わせて真言を繰り返し唱えながら是非お参りください。もしかするといつもよりお地蔵様が軽く感じられるかもしれません。

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重軽地蔵

仏足石

ぶっそくせき

仏足石

仏足石とはお釈迦様の足跡を石に刻んだものです。
万松寺の仏足石は、加藤清正公が名古屋城築城の際に天守閣の石垣として集められた石材の中から発見されました。
清正公は身代不動明王によく参拝しており、この仏足石を奉納したとされています。
木版 曹洞宗萬松寺略記の不動明王の項に仏足石について触れられています。
「佛足石上ニ立タセ給ヒ加藤淸正之ヲ奉納ス」

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仏足石

白龍

はくりゅう

白龍

仏法において龍は「守護神」であり、白色は「清浄」を表しています。

【上演時間】
11時/13時/15時/17時/19時

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白龍

からくり人形『信長』

からくり人形『信長』

からくり人形師・八代目玉屋庄兵衛氏によって制作されました。戦国武将・織田信長公の歴史に残る名場面を再現しています。

上演時間

10時/12時/14時/16時/18時
天候により上演が中止になる場合があります。

第一場

天文二十一年(1552)。万松寺で織田信長の父、信秀の葬儀が営まれた。当寺開山・大雲永瑞大和尚をはじめ僧侶約三百名と親族、家臣等が参列する中、信長は喪主でありながら、無礼な装いで焼香の時になってようやく現れ、こともあろうに抹香を手づかみにして信秀の位牌に投げつけたのであった。「うつけ者」だという噂がさらに高まった。

第二場

永禄三年(1560)。信長は桶狭間の戦いで奇襲に成功し、今川義元を破って天下統一の場に登場した。その出陣を前に幸若舞「敦盛」を舞ったとされている。「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻の如く也、一度生を得て 滅せぬ者の有るべきか」この文言を愛した信長は五十年に一年足らぬまま風雲の生涯を閉じたのである。

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万松寺本堂