万松寺の歴史

  • 2009年

    【納骨堂「水晶殿」完成】
    2009年2月、万松寺本堂3階に、永代供養納骨堂「水晶殿」が完成。

    水晶殿は従来のイメージを一新する新しいコンセプトの納骨堂で、 荘厳で美しい空間、最新技術を導入した演出やセキュリティなどが話題となりマスコミでも数多く紹介されています。

  • 1994年

    【本堂再建】
    戦後の復興期に、稲荷堂、不動堂を新築しましたが、本堂の再建は遅れ、平成4年5月から工事に着手。 平成6年4月に完成しました。

  • 1945年

    【名古屋大空襲で焼失】
    昭和20年3月12日の名古屋大空襲により、大須地域一円が焦土と化し、万松寺も運命を共にしました。

  • 1912年

    【寺領の大部分を開放】
    大正元年、三十七世大円覚典和尚が、寺域の大部分を開放し、大須を名古屋の大繁華街としました。
    →大須商店街の誕生

  • 1610年

    【現在の地に移転】
    慶長十五年(1610年)名古屋城築城にあたって、徳川家康の命により現在の地(大須)に移転。 当時、寺域は二万二千三百九坪の広さがありました。

  • 1552年

    天文二一年(1552)三月三日信秀公が享年42歳で病死。葬儀は萬松寺で執り行われた。喪主は信長。 300人を数える役僧の読経の中で厳粛にとり行われる中、茶筅まきの髪に腰には荒縄の帯、長束の太刀と脇差と、葬儀にふさわしくない姿で現れ、いきなり仏前に進むと抹香を大きく手づかみにするなり信秀公の位牌に投げつけた。 このとき信長は18歳、周りから「うつけ者」と陰口を叩かれていた信長だが、この葬儀の振る舞いで更に噂が高まった。 しかし、これは隣国大名に「信長はうつけ者」との噂を真実と思わせ油断させるための計算された行動であったとする説や、緊張と父の死を悼む心が一度に溢れ、衝動から抹香をたたきつけるようにして涙を抑えたのが、乱暴であると列席の目に映ったと説く歴史家もいる。

  • 1547年

    “幼少家康、万松寺に日を送る”
    天文11年(1542)松平家の長子竹千代(後の徳川家康)が生まれる。 松平弘忠は天文16年(1547)、岡崎を攻略しようとする信秀公と対抗するため、今川と盟を結び、6歳になる竹千代を人質として駿河へ送ろうとする。 しかし途中、田原城主戸田康光のため、竹千代は銭500(現在の1000万円ほどか)で信秀公に売られ、尾張へ海路逆送される。 送られた竹千代は熱田の加藤図書助順盛宅、さらに万松寺で3年間、信秀公の保護のもとで暮らす。万松寺と家康の因縁である。

  • 1540年

    天文九年(1540年)尾張一円を領していた古渡城主、織田備後守信秀公(織田信長の父)が、織田家の菩提寺として開基しました。御本尊は十一面観世音菩薩。開山は信秀公の伯父の大雲永瑞大和尚)。正式の寺号は亀嶽林(山)萬松寺。当時の場所は名古屋市中区錦と丸の内二、三丁目にまたがったところで、大殿を中心に七堂伽藍の備わった一大寺院、敷地は約5万5千坪にも及びました。